home  

candylogue

cinema

book

2009年の読書記録

2009年に読んだ小説リスト(小説以外も一部含む)。今年もわりと読んだ。引越をした関係で、着席できる機会が増えたので、読書機会を確保できたのが大きいと思う。2008年に引き続いて村上春樹ばかりで格好悪い気もするけど、でも事実なので仕方ない。後ろの方は伊坂幸太郎付いているところもミーハーっぽくて要チェック。いやチェックはしなくていいです。とくに印象に残ったのは「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」、「自由をつくる 自在に生きる」、あとは村上春樹の一連のエッセー。伊坂幸太郎は読んだのが最近なので、しばらく保留。

断片の蓄積における回復と旅について

瓦礫の山を地ならしする重機のように、無慈悲に冷淡にただし熱意を持って村上春樹ばかり読んでいます。あるいは呆れるほどに。

とはいえ小説の類はあらかた読み終わっているので、読むのはたいていの場合、エッセイや紀行などのノンフィクションになってくる。よく絵が浮かぶような文章だ、という褒め言葉があるけれど、そんな変換をしないですっとそのまま入ってくる。小説がどちらかというと身を削って、心を研ぎ澄まして、深く深く潜り込んでいくような精神性を持っているのに対して、エッセイは普段の生活の中で浮かび上がってくるものをできるだけ純粋に取り込んでいくような、敢えて言うならば治癒的な精神性を宿したものだと思ったりする。疲れたときに読むとちょっとだけ元気になる。別に村上春樹である必要はないのだけど、自分にとってのそういう本をいくつか持っておくと少しだけ楽な気持ちで生きていくことができる。ちょっとしたことだけどそういうことは大切だと思う。違うかなあ。

以下、年表記は文庫版の出版年。

やがて哀しき外国語 (講談社文庫) 1997年

アメリカ・プリンストン時代に書かれた滞在記。時系列的には下の「遠い太鼓」のあとになり、ヨーロッパからアメリカへと舞台は変わる(忙しいですね)。単に舞台がアメリカに変わっただけではなく、ヨーロッパでの放浪的な視点から、プリンストンに根を下ろしての生活者としての視点に変化しているのが面白い。と書いたけど読んだ順はこちらが先なので、その感想は嘘です。想像の話。でもどちらの方向で読んでも、この変化は面白いと思いますよ。

遠い太鼓 (講談社文庫) 1993年

1986年から1989年にかけてのローマを中心としたヨーロッパ滞在記。まえがきにおける「常駐的旅行者」としての視点で全篇が書かれ、オフシーズンの静寂と猫と嵐に囲まれたスペッツェス島で、強風のミコノスで、喧騒と怠惰と親切に溢れたローマで、ふたたび訪れたギリシャで、それぞれの出会い、食事、あるいは、ワイン、猫、移動に次ぐ移動、小さな町の小さなホテル、あるいはレストラン、そういうものを時に克明に、時に足早に書き留められている。これらの断片を読み連ねていくことで、連続した紀行ではないのに、濃密な旅をした気持ちになり、そして旅に出たくてむずむずする。そういう気分になれるのってとても楽しいですよね。

もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫) 2002年

ウィスキーにまつわる2つの話。スコットランドでのシングル・モルト、アイルランドでのアイリッシュ・ウィスキーを巡るそれぞれの紀行(と村上夫人による写真)。ウィスキーを飲まない僕でも、ウィスキーを起点とする人と自然の関係、風土、匂い、想い、そんなものがじわじわと滲み出てきて、重厚な香りと琥珀色の液体が魅力的に思えてくる。短いし、決して派手に面白おかしい文章ではないのだけど、ドライで熱のこもった文章が読めると思います。

シドニー! コアラ純情篇 / ワラビー熱血篇 (文春文庫) 2004年

2000年のシドニーオリンピックに乗り込んでの23日間のオリンピック観戦記。観戦記なんだけど、動物園でコアラに触ったり、レンタカーで1,000kmを走破してみたり(1日で)、パソコンを盗まれてみたり、挙げ句の果てにオリンピックに悪態をついてみたりと、好き勝手やっていて好感が持てます(笑)。そんな好き勝手やっているウラで(オモテで)、リアルタイムで現地で氏が過去最高速度で書き上げた濃密な原稿を読むことで、ある視点におけるオリンピックを眺め、追体験できることがこのエッセイの最大の効用です。23日間分の記録なのに上下巻あるなんてねえ。小説家おそるべし。

中国行きのスロウ・ボート

眠い。村上春樹の「中国行きのスロウ・ボート」を読了。初期の短篇集だけあって表現が瑞々しい。とかいうことは時系列、カテゴリ無視の無差別読破体制下においてはとくに意味を成さないし、どうでもよい。ほかでも書いた気がするけれど、短篇という作品形態の自由さと難しさが如実に出ていて興味深い。でも内容が面白いかというとそれほどでもない。もっと面白い短篇集はある。表題作の「中国行きのスロウ・ボート」がいちばんわかりやすく、いちばん心に残った。とくに二人目の中国人の話。羊男が登場する最後の「シドニーのグリーン・ストリート」は気楽に読めて、何よりリラックスして読み終えられてよかった。そしてなにより装丁がよいのがよい。

うずまき猫

ふと思い立ってアマゾンでレビューを斜め読みして(ちゃんとは読まない)から、ブックオフオンラインと楽天ブックスで、それぞれ5冊ずつ本を注文する。5,000円に届かないくらい。さらに未読の本が増えるけど気にしない。1年後でも5年後でもいつか読めばいいのだ。いつでも読める本がいくつも手元にあるしあわせ。そういうしあわせが30分くらいで達成できるのは素晴らしいことだなあ。とか思いながら「うずまき猫のみつけかた」を読了。嘘。思いながらではない。また村上春樹づいているな。行き帰りの電車の中で読むのにちょうどいい内容で、最後の猫の話と巻末の蛇足の対談がとくによかった。あしたからは何を読もうかな。

今更に1Q84の感想を書く間の悪さ

先々週くらいから村上春樹の1Q84をようやく読み始めて、読み終わる。村上春樹を文庫でしか知らない遅咲きの私としては初の新刊村上春樹なわけですが、はじめは期待値が高い分、あんまり面白くないなあ、でもまあ大丈夫なんじゃないの? などと思いながら読んでいました。で、読み終わってみると、いつの間にか面白かったなあに変わっていることに気づいたのですが、じゃあ何処が面白かったのかと考えてみると、よくわからない。よくわからないけど、きっと文章の削り出し方とか、計算尽くなのだろうけど、緩い感じの表現など、つまりライティングの技巧的な部分に感心しているのだと思い至る。そういう楽しみ方はマニアックな反面、よくある村上春樹的楽しみ方でもあり、それ自体にユニーク性はない。だけれども、興味深い表現を創出する傍らで、付随して生成される話の面白さ、表現が主で、話が従、みたいなものが村上春樹小説の神髄だなどと書いてみたりすると暴論だろうか。暴論ですね。すみません。えーと、なんだっけ。感想はというと、面白かったです。とても。

それと、前にも書いたけれど、この装丁は好きじゃない。いや、むしろ嫌いです。文庫が出たら買い直そうかしら。ハードカバーってかさばるけど、装丁やずっしりとしたところが素敵だったりする。でも、これにはそういう素敵さが見あたらないのだな。中身がいいのだからそれでいいじゃない。という意見に対しては、中身がよくて外見もいい方がいいに決まってるじゃないですか。と反論させていただいたところで終わります。あ、さらにずっと前から買ってあった村上ラヂオも余勢を駆って読了。これは面白い。文庫だということも含めてね。

あの子の考えることは変

本谷有希子の「あの子の考えることは変」を読了。相も変わらずの本谷有希子小説なり。ルームシェア友だちの巡谷さんと日田さんが隠された能力を解放していく愉快で痛快な話。愉快でも痛快でもないけどそれが愉快で痛快。グルーヴ先輩とか高井戸症候群とかそういう意味がわからないけど無駄にパワフルな感じが好ましいです。おすすめはしないけど。

ピエロ

ブックオフで送料無料要員として買った「殺人ピエロの孤島同窓会」が、思いの外、面白くてサクサクと読み終わる。「このミス」特別奨励賞受賞で、執筆当時作者は12歳の中学生という、周辺情報が派手な作品なのだけど、それに負けずに、というより、そういうことを加味した上で読んで、楽しめた。孤島で大量殺人という設定はありきたりだし、ストーリーは相当なご都合主義だし、気になる箇所はたくさんあるけど、そういうことでは揺らがない力強さがなにより頼もしいしワクワクした。アマゾンの評価は低いけど。

サイエンス・フィクション

たまにはSFでも。ということで「逆転世界」と「時間衝突」を読む。いわゆるハードSFではないので、論理性よりも飛躍や欺瞞の鋭さ、鮮やかさ重視。300年前に撮られた現在よりもはるかに古びた遺跡の写真から始まる「時間衝突」がなかなか面白かった。考える間を与えられず、次々と事態が展開する勢いの良さに乗せられてすいすい読めた。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読了。なぜか読み残していて、折角だから短篇なんかをあらかた片付けてから取りかかろうと、ずっと温存していた最後の長篇に満を持して取り組む。思えば僕にとっては「国境の南、太陽の西」以来の長篇、と思ったけれどこれは村上春樹作品としては中篇のような気がするので、真の長篇としては「海辺のカフカ」以来かな。読む順番が滅茶苦茶だけど、そういうことはもうどうでもいい。少なくとも読書においては遅い人ほど自由なのだ。

最後に読んだことが多分に影響していると思うけど、いちばん良かったかも知れない。気のせいかも知れない。ひとことで言うとイカしている。そんな中で最も気に入ったのは次の一節。

「前よ」と彼女は言った。

世界はたしかに進化しているのだ。

ということで、次は「1Q84」ですね。

螢・納屋を焼く・その他の短編

村上春樹の「蛍・納屋を焼く・その他の短編」を読了。一編めの「螢」を、あれ、これ読んだことあるなあ、もしかして前に読んだのを間違えて買ってしまったのかも、などと不安を感じながら読み進める。何を隠そう、部屋の書棚には「国境の西・太陽の南」と「海辺のカフカ」が2冊ずつある。カフカに至っては上下巻とも2冊ずつだ。ひどい話である。まあそれはともかく、事端の懸念は杞憂だった。北欧の話が好きな人は読んでみるといい。北欧ではなく四谷の話だけれど。「レキシントンの幽霊」に収録されていた「めくらやなぎと、眠る女」はそんなに好きな話ではなかったのだけれど、その元バージョンである「めくらやなぎと眠る女」は、読んでみて少し好きになった。バスのシーンが静かで美しい。「三つのドイツ幻想」は意味がわからなくてなかなかいい。でもいちばん好きなのは「踊る小人」、もしくは「あとがき」。

神の子どもたちはみな踊る

村上春樹の「神の子どもたちはみな踊る」を読了。あいかわらず読む。ここのところ読んだ短篇集の中では最もふつうというか、読みやすい短篇集で、そのぶん不可解性やもやもや感は少なめ。短篇集を読む傍ら、ちょこちょこと読み進めている「少年カフカ」によると、当時における村上春樹文体の総決算として書かれているようなので、そういうことを念頭におきながら読むと印象深いかも、といいつつ、読んでいるときはそんなことは気にせず読んでいたので、そのうち思い出したら読み直してみたいと思う。「神の子どもたちはみな踊る」「タイランド」「かえるくん、東京を救う」「蜜蜂パイ」がとくに印象に残った。

TVピープル

村上春樹の「TVピープル」を読了。これでもかと村上春樹ばかり読んでいるけれど、そのことにとくに意味はなくて、しいて言えば、仕事の行き帰りの電車の中で読むと片道でおおむね50ページくらい読めて、都合数日で読み終わるのが精神衛生上、悪くなく、それで何となく読んでいる、というのが事実に近い。「我らの時代のフォークロア --高度資本主義前史」「加納クレタ」「眠り」が好き。

レキシントンの幽霊

村上春樹の「レキシントンの幽霊」を読了。以前、森博嗣が、良い短篇を書くことは良い長篇を書くことよりも数段難しい、というようなことを言っていた。細部は違っていたかも知れないが、ニュアンスとしてはそのようなことを言っていた気がする。勘違いかも知れない。それはともかく、というよりも、そもそも森博嗣を引き合いに出すまでもなく、優れた短篇小説は時として優れた長篇小説を凌駕することがある。あるいは凌駕しないこともある。大抵はそのどちらかである。

この本は良く精錬された短篇集であり、読むともやもやとする。その消化しづらい捕らえどころのないものは、嫌らしいものではなく、心地よくさえある。心の何処かにある、ごろっと静かに沈む何かを感じながら読み終えて、さてそうだね、などとつぶやいてから、夜のご飯のことでも考えてみたりする。「沈黙」「トニー滝谷」「七番目の男」が出色。

パン屋再襲撃

村上春樹の「パン屋再襲撃」を読了。85年から86年に掛けての作品なので、僕は小学生の頃か。そう思うと感慨深い気がすると思いきや、そうでもない。でもこの年齢ならオンタイムで読んでいる可能性もあった訳で、20年目の邂逅というか、本というものの寿命の長さを感じる。しみじみとウェットに想うというより、さらさらとドライに思う。

短篇集であり、どの話もつかみ所が無く、具体的な話が積み重なって抽象的な話に昇華して霧散するような、でも残り香が何時までも消えずにとどまっている、そんな小説。「ファミリー・アフェア」がとくに良かった。そのほか、ねじまき鳥クロニクルの元となった「ねじまき鳥と火曜日の女たち」など収録。

夏の水の半魚人

前田司郎の「夏の水の半魚人」を読了。これまでの前田小説とはちょっと毛色が異なり、ポジティブ脳天気ダメ人間路線ではなく、もっとずっとアンニュイな印象がある。簡単に言うと、物静かで詩的なイメージ。ついに賞取っちゃうのかなあ、という気もしなくはない。ただ、不可思議な要素が含まれているところは相変わらず。ところで、印象ばかりを重ねてなにも具体的に語っていないのは、こういう作品を僕は咀嚼しづらいからなのだけど、何でもかんでも把握しなくちゃいけないなんてのは疲れるから嫌なのである。読み流すくらいがちょうど気分が良い。

散歩する侵略者

前川知大の「散歩する侵略者」を読了。以前観てとても良かったイキウメ・前川知大の処女小説で、イキウメ作品同様、日常と非日常を行き来しながら、ゆらゆらと切迫感乏しく、でも確実にズレながら深みにはまっていく感覚がある。

物語は縁日の金魚から始まり、タイトルにある通り「侵略者」が現れ、夫婦や家族や、あるいは何かが、少しずつ壊れていく。でも圧倒的な崩壊や終末はなかなか訪れず、あくまで緩やかに壊れていく。そしてやがて訪れたその時に何が壊れ何が残るのか。そういう物語。

恋文の技術

森見登美彦の「恋文の技術」を読了。初めに断っておくと、僕は森見登美彦に毒されているので客観的な感想は述べられない。なのでその点を差し引いて読んでいただきたい。というようなことは前にも書いた気がする。

で、とてもオモシロイ。始めから終わりまで徹頭徹尾、阿呆な腐れ大学(院)生が手紙を書いて書いて書きまくる。それ以外のことは一切起こらない。登場人物も数えるほどしか出てこない。そもそも物語は手紙の中でしか展開されない。それなのに鮮やかに浮かび上がる豊かな情景。恋文と言いながら恋文とは言い難い書簡の数々。知略を巡らし墓穴を掘り続ける大いなる無駄の毎日。そして遂には恋文の技術は確立されるのか否か。そういうことを思いながら、手に汗握ってページを繰ることもなく、淡々と読み進めていくその先にあるものははてさて。

読後感もくどすぎず、薄すぎず、ほどほどにちょうど良いところもとても好ましい。そしてなによりも文中に登場する伊吹さんの言動が素晴らしい。この毒にも薬にもならないが故に効能豊かなテキストを、いずれまた読み直したい。

ということで引き続き、前川知大の「散歩する侵略者」を読み始める。

大阪城をめぐる話

万城目学の「プリンセス・トヨトミ」を読了。京都、奈良と続いた話の今度の舞台は大阪。壮大且つ妄大であり、過去作を凌ぐ長大で深大なストーリーながら、さくりと読める手軽さがある。でも、完成度や馴染みやすさは今ひとつというか、細部の粗さが気になったかな。そういうところを気にして読む類のものではないのはわかっているのだけど。

引き続いて、森見登美彦の「恋文の技術」をヨムヨム。

毛玉読書

電車の中でわくわくしながら毛玉話の続きを読む。そろそろ単行本になる頃合いかなあ。引き続いて、「プリンセス・トヨトミ」を読み始める。今年は全然本を読んでいないのだけど、ぼちぼちと読んでいきます。

2008年の読書趣味を振り返る

今年はここ数年では割合と本を読んだと思う。なお、下のリストからは仕事向けの本は除いている。除いているのだけれど、実際、あまり仕事向けの本で参考になったと思うことはない。そもそも読んでいて面白くない。まあ、オモシロが目的ではないので仕方がないのだけど、どうもそういう実用的な本は心ときめかないというか、ぐっと来ないのだ。何であれぐっと来ないと頭に入らない。これまで仕事やその他何でも良いのだけれど、本を読んで実用になった!と思うことの大半は、実用書からはほど遠い、小説やエッセイや漫画や、あるいは本ではないけれど、ブログとかその手のものだ。ハウツー本やら啓発本より、本のテーマはどうでもよくて、そこに表出する考え方だったり、論理、あるいはセンスみたいなものに心がときめいて、ぐっと来る。で、そういったものが、ふと、「あ、これ使えるじゃん」という感じで実利となることがとても多い(但し、当然のように打率は恐ろしく低い)。「これが答えです」みたいなものより、何かに付随するエッセンスの方が信用できるというか。まあ僕が捻くれているだけ、とも言える。僕はどうも考えがちな性格のようだけど、きっと他人からの答えよりは、自分で納得のいく答えを求める傾向が強いのだろう。言い換えれば自分勝手だ。これからも自分勝手にいろいろと咀嚼して、役に立たないかも知れないエッセンスを集めていきたいと思う。

僕は村上春樹のことを昔はとくに理由もなく嫌っていて、ずっと敬遠していた。現在において村上春樹のことは語り尽くされていると思うし、その中でいまさらとくに際立ったことは言えないのだけれど、精緻な彫刻のように削り出される言葉とどうしようもなくいい加減な話によって組み立てられる言葉の集合体に、薄暗く力強い意思が感じられて、静かに心が揺さぶられる思いがする。あえて一冊を挙げるとすれば、処女作の「風の歌を聴け」。理由は説明すると長くなるので割愛する。そのほか、今年読んだ中でとくに印象的だったのは、「美女と竹林」「赤めだか」「工学部・水柿助教授の解脱」あたり。でも、いちばん良かったのはこれらではなくて、「森博嗣の道具箱」。本、とくに娯楽本の類なんて、大抵の人は読まないみたいだから、薦めてもあまり意味はないと思うのだけど、あえて薦めるならこの本だと思う。読んでみて、「詰まらなかったよ」と言われたとしても、まあこれでそう言われるなら仕方ないよな、と思えるから。来年もぼちぼちと読んでいきます。

今年読んだ本たち(抜粋)